一難去ってまた一難。 人生の「底」を経験
こんにちは、ねこのてです。
今月も弊社代表、宮脇によるねこのて通信をお届けいたします。
阪神淡路大震災。1個1円で命をつなぐ
離婚し、娘たちと母子寮に引っ越した私は、保険のセールスを始めました。
そのときに出会い、再婚したのが、私の保険のお客様である靴工場に勤めていた二人目の夫です。
そして⻑男をみごもっているときに起こったのが、阪神淡路大震災です。
夫が勤務していた靴工場は、大きな被害を受けた神戶市⻑田区にありました。
工場は燃え、 家の電気も水道も止まりました。私の実家も半壊しました。
夫は意気消沈したのか、靴工場を辞めてしまいました。
私はお祝い金などをかき集め、なんとか出産費を工面して⻑男を出産。
電気ポットでお湯をわかし、⻑男をお風呂に入れていたのを覚えています。
あの頃どうやって生きていた のか、あまり記憶がありません。
私は収入を得るため、靴に革底を貼ったり、 ヒールに布張りする内職を始めました。
1個1 円。
朝から晩までやりましたが、まとまった収入にはなりませんでした。
「このままでは食べていけない」。
本当は保険の仕事に戻りたかったのですが、子どもを預ける先がありませんでした。
そこで選んだのが、託児所のあるヤクルト販売の仕事。
⻑男が小学校に上がり、保険の仕事に復帰できるまで、私はヤクルトの配達で外を走り回っていました。
でも、家にお金をいれなくなった夫とは、けんかが絶えませんでした。
それでもがまんしていたのですが、ある日、次女が夫にたたかれ、鼻血を出してしまいました。
「もういらん!」。
私の中で何かがプツンと切れました。
3度目の結婚。おかずにも困る極貧生活
離婚し、子どもたちを連れて家を出ようとしましが、夫のおばあちゃんは、血を分けた孫である⻑男だけは、どうしても離そうとしませんでした。
もめにもめた末、私は仕方なく⻑女と次女をつれて再び母子寮へ。
「⻑男は必ず迎えに行く!」と心に決め、タイミングを図っていたころ、ふと離婚した夫が⻑男を連れて私の元にやってきました。
「自分には育てられない」。 こうしてようやく、子どもたちと全員そろって暮らせるようになりました。
3度目の結婚は、妹がきっかけとなりました。
妹が離婚したのを機に、姉妹で近くに住もうとなり、公共住宅に入居しました。
そのとき、保険の営業先で出会ったのが現在の夫です。
この人に会うために私は苦労してきたんだと思えるくらい、優しい人でした。
結婚後、夫は「いまやっている⻭科技工士を辞めて、好きなアメリカ雑貨を売る仕事をしたい」と言いました。
私は、やりたいことをやったらいいよと、快く背中を押しました。
ところが、ここから始まったのが極貧生活でした。
末っ子を出産し、私は子育てに専念していたので、収入は夫のアメリカ雑貨販売のみ。
夫は朝から晩までがんばってくれましたが、7 人家族を十分に養うのは難しく、ごはんのおかずを買えなくなるほど貧しくなりました。
子どもたちを遊びに連れていってあげたいのに、どこにも連れていけない…。
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
そんなとき、私の人生を変える大きな出来事が起こりました。叔父の死です。
このことがきっかけとなり、私の遺品整理人生が幕を開けることになるのです。 (続く)
毎月第一月曜日にねこのて通信を配信していきます。